マテリアルゲノムとデジタルライブラリが拓くサステナブル素材開発:ファッション商品企画の未来
ファッション業界における素材選定の重要性とサステナビリティ課題
ファッション製品の品質、機能性、そして環境負荷や倫理的な側面は、素材の選択に大きく依存します。特に近年、消費者や規制当局からのサステナビリティに対する要求が高まる中で、環境負荷が少なく、社会的に公正な方法で生産された素材(サステナブル素材)の重要性が増しています。
しかし、サステナブル素材は種類が豊富になりつつある一方で、その特性は多岐にわたり、サプライヤーも分散しています。開発担当者や商品企画担当者にとっては、膨大な情報の中から最適な素材を見つけ出し、その性能や環境負荷を正確に評価することは容易ではありません。また、新しいサステナブル素材の開発には時間とコストがかかるという課題も存在します。
こうした背景から、素材開発・選定プロセスにテクノロジーを導入し、効率化と高度化を図る取り組みが進められています。その中で注目されている技術の一つが、「マテリアルゲノム」と、それを基盤とする「デジタルマテリアルライブラリ」です。
マテリアルゲノムとは何か?
マテリアルゲノムとは、材料科学分野におけるアプローチであり、素材の物理的・化学的特性や構造、製造プロセス、性能、コスト、環境影響など、あらゆる情報をデータとして体系的に収集・解析し、データベース化する概念です。これにより、素材を単なる物質としてではなく、膨大な特性データの集合体として扱うことが可能になります。
このアプローチでは、データサイエンスや機械学習といった技術を活用し、素材の特性を予測したり、特定の目的に最適な素材を効率的に探索したり、あるいは新しい素材の設計を支援したりします。これは、生物の遺伝子情報(ゲノム)を解析して生命現象を理解し、応用しようとするバイオテクノロジーのアプローチに類似していることから、「マテリアルゲノム」と呼ばれています。
ファッション業界においては、繊維や生地といった素材に関する多角的なデータをデジタル化し、構造的に管理・解析する基盤となります。
デジタルマテリアルライブラリの構築と活用
マテリアルゲノムの概念に基づき、実際に素材に関するデジタルデータを集約・管理するのがデジタルマテリアルライブラリです。これは、物理的な素材サンプルを保管する素材ライブラリのデジタル版と考えることができます。
デジタルマテリアルライブラリには、以下のような情報がデジタルデータとして蓄積されます。
- 物理的特性: 強度、伸縮性、通気性、耐摩耗性、色堅牢度など
- 化学組成: 使用されている繊維の種類(天然繊維、再生繊維、合成繊維など)、加工剤など
- 製造プロセス: 紡績方法、織り/編み方、染色、後加工、使用エネルギー、水使用量など
- 環境・社会情報: 環境認証(GOTS, Oeko-Tex, Bluesignなど)、CO2排出量、水フットプリント、トレーサビリティ情報、労働条件など
- サプライヤー情報: サプライヤーの詳細、生産背景など
- 画像・3Dデータ: 素材のテクスチャ、ドレープ性などを再現するデジタルツインデータ
これらのデータを一元的に管理することで、商品企画担当者やデザイナー、素材開発者は、必要な特性を持つ素材をデータベース内から迅速に検索・比較検討できるようになります。物理的なサンプルを取り寄せる前に、デジタルの情報で多くの候補を絞り込むことが可能です。
サステナブル素材開発・選定への貢献
マテリアルゲノムとデジタルマテリアルライブラリは、特にサステナブル素材の開発・選定において大きなメリットをもたらします。
- サステナブル素材の探索効率化: 膨大なサステナブル素材候補の中から、特定のデザインや機能性要件を満たしつつ、環境負荷や社会的な側面の基準も満たす素材を効率的に探し出すことが可能になります。データベースに登録された環境負荷データ(LCAデータなど)を基に、素材ごとのインパクトを比較検討できます。
- 性能と環境負荷の予測: 素材の組成や構造、製造プロセスに関するデータから、その性能や耐久性、そして環境負荷を予測するモデルを構築できます。これにより、試作回数を減らし、開発コストと時間を削減しながら、より高性能でサステナブルな素材を開発する確度を高めることができます。
- サプライヤー連携の強化: サプライヤーごとの素材データや環境・社会情報をデジタルライブラリで共有することで、サプライヤーとの連携がスムーズになります。サステナビリティ目標に基づいた素材調達基準を設定し、基準を満たすサプライヤーや素材をデータベースから特定することも容易になります。
- トレーサビリティの向上: 素材の生産地、原材料、製造プロセス、認証情報などをデジタルデータとして記録・管理することで、サプライチェーン全体の透明性を高めることができます。これは、原材料の倫理性や環境負荷に関する情報開示にもつながります。
- デジタルツインとの連携: デジタルマテリアルライブラリに蓄積された素材の3Dデータやテクスチャデータは、バーチャルサンプリングやデジタルツインの構築に活用されます。これにより、物理的なサンプル作成に伴う廃棄や輸送の環境負荷を削減しながら、素材の見た目や風合い、ドレープ性などをデジタル上で確認できます。
導入・活用上の課題
マテリアルゲノムとデジタルマテリアルライブラリの導入・活用には、いくつかの課題が存在します。
- データの標準化と収集: 素材に関する多様なデータを、共通のフォーマットで収集・管理するための標準化が必要です。また、サプライヤーからの正確なデータ(特に環境負荷やトレーサビリティに関する詳細情報)を継続的に収集する仕組みの構築が求められます。
- システム構築と運用コスト: 高度なデータベース、解析ツール、そしてそれを運用するためのITインフラや専門人材が必要となります。初期投資やランニングコストが発生します。
- 既存ワークフローとの連携: 素材の選定や開発、商品企画、生産管理といった既存のワークフローと、デジタルマテリアルライブラリのシステムをいかにスムーズに連携させるかが重要です。
- 技術的な専門性: データサイエンスや材料科学に関する一定の知識を持つ人材、あるいは外部の専門家との連携が必要となる場合があります。
今後の展望と業界への示唆
マテリアルゲノムとデジタルマテリアルライブラリの技術は、今後さらに進化し、ファッション業界の素材に関する意思決定プロセスを大きく変えていくと予想されます。AIによるサステナビリティを考慮した素材の自動設計、ブロックチェーン技術との連携によるより強固なトレーサビリティ、そして消費者への素材情報の透明な開示などが進む可能性があります。
商品企画担当者にとっては、これらの技術を活用することで、以下のようなメリットを享受できます。
- サステナビリティ目標達成に貢献する素材を、より迅速かつ的確に選定できるようになります。
- 新しいサステナブル素材の開発プロジェクトにおいて、より科学的・データに基づいたアプローチが可能になります。
- サプライヤーとのコミュニケーションが効率化し、より強固なパートナーシップを構築できます。
- 素材に関する詳細な情報を社内で共有し、デザイン、生産、マーケティングといった各部門との連携を強化できます。
自社における素材情報のデジタル化、データ収集プロセスの見直し、そしてデジタルマテリアルライブラリの導入可能性について検討することは、今後のサステナブルな商品企画戦略を策定する上で重要な一歩となるでしょう。